「ふくしまの歴史と文化に触れる会」第56夜に参加してきました。

3月19日(土) 16:30から、NPO法人ヒューマン・ネットワークふくしま(代表・菅野淳一)主催の「ふくしまの歴史と文化に触れる会」に参加してきました。いつものパセナカmisse 1階 地域交流スペースにおいての第56夜は、本当に久々の開催でした。

「いやぁ、たいへんご無沙汰いたしました。‥‥ここからなんとか復活させていただきたいと思います。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。とは言いながら、コロナウィルスは収束した訳ではなく、インフルエンザのような普通の感染症になった訳でもありません。人数を制限し、しっかり対策をしながら再開したいと思います。ご協力をお願いいたします。さて、この会は、歴史を裏から横から斜めから見て、裏話やトリビアをできるだけ多く紹介することにしております……。」

今回のテーマは 「福島ゆかりの偉大な●●者たち~彼らに何が足りなかったのだろうか~」でした。講師は菅野淳一代表で、俎板に上がったのは、平安時代から平成まで福島にゆかりのある徳一(とくいつ)、堀田正仲、野口英世、伊藤正義の4人でした。興味が引かれたのは、あまり知らなかった徳一と堀田正仲です。

徳一(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧です。父の恵美押勝 (藤原仲麻呂から改名) が反乱を企てますが、鎮圧され斬首となります。 一族はことごとく処刑されましたが、6男刷雄は隠岐国への流罪、徳一は東大寺に預けられ、その後、出家。東大寺から興福寺へ移り、修因 (修円) に師事し法相宗を学び、神野山で修行。学ぶにつれ、権力と結びつき堕落した都の仏教に疑問を持つようになり、平城京を離れ東国へ向かい、弊衣粗食に甘んじる雲水の僧となります。大同元年(806年)、奥州会津石梯山に清水寺(慧日寺)を建立(私聚百因縁集巻7)。「この時代は、福島が日本の最北端に位置していたのではないか」と菅野講師。同年、磐梯山が噴火し、翌807年、徳一に関係する寺院の多くが、開創されます(『ウィキペディア(Wikipedia)』参照)。今に伝わる「仏都会津」の礎を作りました。

最澄とのあいだでやりとりされた、いわゆる三一権実諍論や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られます。徳一の著作は『真言宗未決文』を除いて、現存はしていません。『中辺義鏡』などの最澄との論争書は、最澄が反論の著作の中で大量に引用しているので、原形を推測することができます。それ以外にも、目録等にのみ書名が残っているものもあります。

菅野講師の話では、「最長、空海は朝廷と結びつき現代まで繋がりますが、その後、慧日寺は奥州平泉の藤原秀衡の会津攻めで廃墟とされた」といいます。

次に、興味をひかれた堀田正仲(ほった まさなか)は、江戸時代前期の譜代大名。下総国古河藩2代藩主、出羽国山形藩主を経て、24歳で陸奥国福島藩初代藩主に。これは父が暗殺されたために行われた処罰的な移封であり、当時の福島藩は悪地が多く、実高が低かったため、藩財政が窮乏したといいいます。

このため、正仲は家臣団の解雇を始め、年貢や運上金を厳しく取り立てる重税の措置を執る一方、領民に対しては特産物である絹織物に絹役、飯坂温泉を始めとする領内の各温泉に湯投銭を課すなど、様々な重税を強いて苦しめたといいます。(『ウィキペディア(Wikipedia)』参照)「家計窮迫」は事実だったようで、浪人する家臣も少なくなかったといいます。

後に6代将軍・家宣の補佐役となる儒学者・新井白石が堀田家を辞したのもこの時代で、「若い頃の白石は多分、福島城下町の長屋に住んでいたと思われます」とは菅野講師。その後、心労もあったと思われ、正仲は移封から8年後、32歳で世を去ります。

久々の今回は、松川の流れの論議で大いに盛り上がりました。