「笈も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり) 芭蕉」■米沢の短大に通う娘が、授業で「奥の細道」のレポートを提出しなければならなくなり、久しぶりに家内と3人で医王寺を訪ねました。1月13日土曜日は、寒さを除けば穏やかな冬晴れの1日。早朝でしたが本堂に上げていただき本尊の大日如来様に線香をあげ、境内にある佐藤基治・乙和夫妻、継幸・忠信兄弟のお墓にお参りをしてきました■冒頭の芭蕉の句碑は本堂前にあり、芭蕉が訪れてから約100年後の寛政12年(1800年)に建てられたとのことです。忠義の武将、継幸・忠信兄弟もさることながら、甲冑を身に着け夫の凱旋の雄姿を装った、その二人の妻たちの年老いた母親・乙和へのけなげな心配りに、当時46歳の芭蕉は感激の涙で袂を濡らしました■鎌倉、江戸と時代は移り、一般庶民の間では悲劇は伝説化され、冒頭の俳句は晴れ晴れとした希望に満ちたものに感じられます■山門を出たところで、社務所の方に呼び止められ、温かいコーヒーを勧められました。ストーブのヤカンからのセルフでしたが嬉しいものです。立ち話のきっかけをいただき、質問を一つ。「宝物殿」で、芭蕉も目にした弁慶の笈は見ましたが、義経が残したという太刀がなかったので伺うと、芭蕉が去った後(江戸時代)に盗まれたということでした■境内に建てられていた「義経~あゝ佐藤一族」の碑が目に留まりました。

「笈も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり) 芭蕉」

米沢の短大に通う娘が、授業で「奥の細道」のレポートを提出しなければならなくなり、久しぶりに家内と3人で医王寺を訪ねました。1月13日土曜日は、寒さを除けば穏やかな冬晴れの1日。早朝でしたが本堂に上げていただき本尊の大日如来様に線香をあげ、境内にある佐藤基治・乙和夫妻、継幸・忠信兄弟のお墓にお参りをしてきました

冒頭の芭蕉の句碑は本堂前にあり、芭蕉が訪れてから約100年後の寛政12年(1800年)に建てられたとのことです。忠義の武将、継幸・忠信兄弟もさることながら、甲冑を身に着け夫の凱旋の雄姿を装った、その二人の妻たちの年老いた母親・乙和へのけなげな心配りに、当時46歳の芭蕉は感激の涙で袂を濡らしました

鎌倉、江戸と時代は移り、一般庶民の間では悲劇は伝説化され、冒頭の俳句は晴れ晴れとした希望に満ちたものに感じられます

山門を出たところで、社務所の方に呼び止められ、温かいコーヒーを勧められました。ストーブのヤカンからのセルフでしたが嬉しいものです。立ち話のきっかけをいただき、質問を一つ。「宝物殿」で、芭蕉も目にした弁慶の笈は見ましたが、義経が残したという太刀がなかったので伺うと、芭蕉が去った後(江戸時代)に盗まれたということでした

境内に建てられていた「義経~あゝ佐藤一族」の碑が目に留まりました。