福島市史編纂室の守谷早苗氏の講演テーマは、「吾妻町の歴史~福島盆地の屋台骨に成立した信夫郡最後の街の歴史~」でした。10月28日㈰開催の福島市・吾妻町合併50周年記念式典でのこと。写真は、そのレジメの4ページ目です■いただいた資料をわかり易くするため、色鉛筆で着色しましたが、福島の屋台骨は松川と須川に挟まれた河岸段丘面であること。文禄年間初めに木村吉清が信夫の支配拠点を大森城から杉妻城へ移転したのは、大森城下が扇状地・氾濫平野で地盤が弱く、大きな城下町が造成できなく、一方、杉妻城下は段丘面で地盤が強固で大きな城下町が造成可能と判断したためといいます。米沢街道が、17世紀前半にこちらに移転したのも地盤がしっかりしていたためであり、吾妻町を構成する多くの村もこの段丘面上に成立しました■現在は建造物の下に隠れているブラタモリ・ワールドですが、この見方が地域防災上もポイントになると気づかされました。後日、福島市史編纂室に守谷早苗氏をお訪ねして、参考にされたという国土地理院技術資料D1-No.735を出力していただき、他にも歴史の貴重なお話を伺いました。

福島市史編纂室の守谷早苗氏の講演テーマは、「吾妻町の歴史~福島盆地の屋台骨に成立した信夫郡最後の街の歴史~」でした。10月28日㈰開催の福島市・吾妻町合併50周年記念式典でのこと。写真は、そのレジメの4ページ目です

いただいた資料をわかり易くするため、色鉛筆で着色しましたが、福島の屋台骨は松川と須川に挟まれた河岸段丘面であること。文禄年間初めに木村吉清が信夫の支配拠点を大森城から杉妻城へ移転したのは、大森城下が扇状地・氾濫平野で地盤が弱く、大きな城下町が造成できなく、一方、杉妻城下は段丘面で地盤が強固で大きな城下町が造成可能と判断したためといいます。米沢街道が、17世紀前半にこちらに移転したのも地盤がしっかりしていたためであり、吾妻町を構成する多くの村もこの段丘面上に成立しました

現在は建造物の下に隠れているブラタモリ・ワールドですが、この見方が地域防災上もポイントになると気づかされました。後日、福島市史編纂室に守谷早苗氏をお訪ねして、参考にされたという国土地理院技術資料D1-No.735を出力していただき、他にも歴史の貴重なお話を伺いました。